白人「お願いです!私達には人権があるのです!黒人と同じ空気を吸わせないでください!」



    1
    「クリスマスに欲しいのは唯一、クリーンな白人専用の学校」「人種隔離を守れ」。
    学校で人種隔離を続けることを求める白人女性ら。
    警察官に向かって叫ぶ。

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    1960年11月15日、ルイジアナ州のウィリアム・フランツ小学校。
    白人専用だったが、裁判所が隔離をやめるように命じた。
    黒人の子どもが登校し始めて2日目の抗議活動。

    5
    黒人が乗った車を襲う白人ら

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    1956年8月31日、テネシー州クリントン。
    クリントン高校の人種融合に反対する群衆。
    車はたまたま通りかかっただけだった。


    57

    >>5

    誰も乗ってないやん
    はい捏造おつ

    6
    (左)人種隔離に反対する運動に参加して、暴行を受けた白人の学生。「裏切り者」としてターゲットにされた。
    (右)黒人の学生を蹴り上げる元警官と歓声をあげる野次馬たち

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    (左)1961年5月20日、アラバマ州モンゴメリーのグレイハウンドのバス停留所。
    ジェイムズ・ズワーグは、公共交通機関での人種差別に反対する「フリーダム・ライド(自由のための乗車運動)」に参加し、襲われた。
    「白人の救急車」が拒否し、1時間ほど路上に放置された。
    (右)(撮影日不詳)元警官のベニー・オリバーが黒人の学生メンフィス・ノーマンを蹴りつけた。

    7
    「われわれの白人コミュニティは、白人の住人を必要としている」

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    1942年、ミシガン州デトロイトに立てられた看板。
    連邦政府の公営住宅である「ソジョーナー・トゥルース・ホーム(Sojourner Truth Homes)」に黒人が移ってくるのに反対した。

    8
    白人の高校生が、木から吊るされた黒人の人形を殴る。
    70人ほどの生徒が人種融合に反対して、教室を後にした。

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    1957年10月3日、アーカンソー州リトルロックのリトルロック・セントラル高校。

    11
    人種融合に反対する集会

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    1963年9月10日、アラバマ州バーミンガムのウエスト・エンド高校近く。
    掲げているのは南部連合旗(南軍旗)で人種差別と奴隷制の象徴となっている。

    13
    吊るされたキング牧師の人形

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    1963年5月6日、アラバマ州バーミンガム。
    極右「ナショナル・ステイツ・ライツ」党の本部前。
    公民権運動に反対するエドワード・R・フィールズとジェイムズ・ムレイ。

    15
    「報奨金 ニガー(黒人の蔑称)の耳1ダース(12個)に200ドル」

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    1956年8月31日、テキサス州ダラス。
    マンスフィールド高校の人種融合に反対する標語が書かれた車。
    立っているのはロイ・リー・ハウレット(14歳)

    17
    「我らの子どもを黒い疫病から救え」

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    1956年1月24日、テネシー州ナッシュビル。
    知事クレメントは人種隔離支持者の代表者と面会。
    人種隔離の州法を拒否した知事として知られるが、このときは「地元の問題だ」として干渉しない立場を表明した。

    18
    人種隔離に反対して座り込む人たちの後ろをアメリカ・ナチ党のメンバーが歩く。
    「われわれは平等ではない」

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    1960年、バージニア州アーリントンのドラッグストア

    19
    いつでも差別かよ
    白人ッパリらしいな

    20
    黒人は後方に。白人は前方に。
    州法が隔離を決めていた。

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    1956年4月、サウスカロライナ州。

    22
    隔離された黒人の教室

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    1941年、ジョージア州

    26
    「有色人種の専用」

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    (撮影日不詳)肌の色で隔てられた水飲み場

    27
    公共のプールは黒人用と白人用に分かれていた。
    デイビッド・イソム(19歳) はその境界を超える。
    直後にプールは閉鎖された。

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    1958年6月8日、フロリダ州セントピーターズバーグ

    28
    新たに人種融合教育が進められた高校から締め出されて自主勉強会を開く9人の生徒

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    1957年9月13日、アーカンソー州リトルロック。
    人種融合が決まったリトルロック・セントラル高校だったが学校が始まる4日、知事が州兵を送って黒人生徒の登校を阻止し大ニュースに。
    23日に初登校すると暴動が起こり、昼には休校となった。
    翌日、市長の要請によって大統領アイゼンハウアーは空挺団を送り、黒人学生は守られて登校した。
    「リトルロックの9人」として知られる。

    30
    KKKのメンバーたちが十字架を焼く儀式。
    人種差別と脅しを象徴する。

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    1962年、ジョージア州アルバニー。
    3000人ほどが参加したと見られている。

    31
    爆破された小学校を調べる警官ら。
    6歳の黒人の生徒の入学が認められた直後だった。

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    1957年9月、テネシー州ナッシュビルのハティー・コットン小学校。
    東側の壁と四つの教室が壊された。

    34
    (左)警官に連行されるマーチン・ルーサー・キング・ジュニア。
    (右)「隔離があることは民主主義がないことだ ジム・クロウを葬り去らねばならない!」

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    (左)1958年9月3日、アラバマ州モンゴメリー。
    牧師のラルフ・アバナシーを襲った男の裁判が開かれる裁判所に着いたキング。
    二人の警察官に連行された。
    (右)1960年11月1日、 人種隔離政策に反対する人たち。
    ジム・クロウは、アメリカ南部にあった人種差別の州法一般を指す。
    人気ミュージカルに登場する黒人の名前が語源。
    1964年の公民権法によって差別は違法になったが、いまでも人々の心に根付く差別を指して使われる。

    35
    アジアンはどうやったんや

    36
    指紋を取る警察官をじっと見つめるローザ・パークス

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    1956年2月22日、アラバマ州モンゴメリー。
    パークスは1955年12月1日、バスで白人に席を譲らなかったという理由で逮捕された。
    これをきっかけにキングはバスのボイコット運動を先導した。
    翌年11月、連邦最高裁が違憲だと判断。
    12月21日、キングらがバスに乗車し、ボイコットの成功を祝った。

    37
    「I Am a Man(わたしは人間だ)」。清掃員らが起こしたストライキ。
    州兵が銃剣を振りかざした。

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    1968年、テネシー州メンフィス。
    劣悪な労働環境や低賃金に抗議して、立ち上がった。
    「メンフィスの清掃員ストライキ」として知られる。

    38
    雇い主の白人を殺した容疑で有罪になった黒人少年が街中の白人からリンチされて火炙りにされた事件

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    解説

    http://www5b.biglobe.ne.jp/madison/murder/text3/washington_jesse.html

    1週間後の5月15日、ジェシーの裁判はたった1時間で結審した。
    主な証拠はジェシーが署名した供述書だが、彼は読み書きが出来ないのだ。署名出来る筈がないのである。
    故にその信憑性は疑わしい。それでも陪審員(全てが白人男性)はたった4分の審議で有罪を評決した。
    死刑判決が下されるや否や、傍聴人の一人が叫んだ。

    「あのクロンボを捕まえろ!」
    (Get that nigger !)

     暴徒と化した傍聴人たちは冊を乗り越え、ジェシーの首に鎖を巻きつけ、町の広場に引きずり出した。
    衣服を剥ぎ取られたジェシーは、煉瓦やシャベルで殴られて、ナイフで去勢され、耳や鼻まで削がれたという。
     広場中央の木の下では、既に処刑の準備が整っていた。薪が燃え盛っていたのである。


    44

    >>38

    手足までもがれてるやん
    えぐい


    47

    >>38

    笑ってんだけどこいつら

    39
    人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。
    イギリス帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E7%9A%84%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%92%A4%E5%BB%83%E6%8F%90%E6%A1%88


    11対5で賛成多数も、アメリカの一存でボツになった模様
    これが「赤い夏」をはじめとするアメリカ国内の人種闘争に繋がる

    41
    ジャップネトウヨは半世紀前のアメカスから進歩してないのか

    43
    赤い夏(英語: Red Summer)は、アメリカ合衆国の36以上の都市において1919年の夏から初秋にかけておこった人種暴動事件である。
    白人がアフリカ系アメリカ人を襲った事件がほとんどだが、一部では黒人も反撃し、特にシカゴ、ワシントンD.C.、アーカンソー州のエレイン(英語版)では多くの死者を出した[1]。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E5%A4%8F

    ワシントンD.C.では7月19日、軍服をした白人が、1人の黒人が白人を強姦した容疑で逮捕されたという噂を聞き、4日間黒人と黒人の商いを見境なく攻撃した。
    彼らは暴動し、街にいる黒人を見かけただけで殴り、電車から引きずりだして殴った。
    警察が介入を拒むと、黒人たちは応戦した。
    集会を止めるべく劇場やサロンが閉鎖されたが、それよりも効果的だったのが激しい雨の訪れだった。
    暴力が終わった時には、警察官2人を含む白人10人、そして黒人5人が死亡した。50人は重傷を負い、100名が軽傷を負った。
    白人の死者が黒人の死者より多かったこの暴動は20世紀の暴動では例外である[13]。

    暴動で殺された黒人

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    45
    1965年の血の日曜日事件(ちのにちようびじけん)は、1965年3月7日に、アメリカの公民権運動中にアラバマ州の都市セルマで起きた流血事件。
    1965年3月7日、525から600名ほどの公民権運動家達がセルマを出発する。
    セルマの人口の半数ほどの黒人達は、差別と脅迫により有権者登録を妨害された。
    同じ年の2月18日に、公民権運動デモ中に警察官の暴力から喫茶店に避難していた両親を守ろうとした黒人、ジミー・リー・ジャクソンに警察官が発砲。
    ジャクソンは8日後の2月26日に感染症のため病院で死亡した。
    中略
    彼らは無抵抗のデモ隊に対して棍棒や催涙ガス、鞭などを使ってセルマに追い返した。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1965%E5%B9%B4)


    46
    ジム・クロウ法(ジム・クロウほう、Jim Crow law)は、1876年から1964年にかけて存在したアメリカ合衆国南部の州法。
    主に黒人の、一般公共施設の利用を禁止制限した法律を総称していう。
    しかし、この対象となる人種は、「アフリカ系黒人」だけでなく、「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(One-drop rule)」に基づいており、
    黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、黄色人種などの、白人以外の「有色人種」(Colored)も含んでいる。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A6%E6%B3%95


    49
    ジム・クロウ法の例

    アラバマ州法
    病院 白人女性の看護師がいる病院には、黒人男性は患者として立ち入れない。
    バス バス停留所には白人用と有色人種用の2つの待合場が存在し、乗車券売り場も白人用と非白人用があった。座席まで分けられており、モンゴメリー・バス・ボイコット事件の発端になった。
    電車 人種ごとに車両が選別されるか、同一車両内でもバスと同様、人種ごとに席が分けられた。
    レストラン 白人と有色人種が同じ部屋で食事ができるようなレストランは違法になりさえもした。

    フロリダ州法
    結婚 白人と黒人の結婚は禁止された。なお4世代前までに黒人の血が一人でも含まれれば(16分の1)、純粋な黒人と同様『黒人』として扱われた。
    交際 結婚していない黒人と白人(結婚自体既に禁止されているが)は一緒に住んではならないし、ひとつ部屋で夜を過ごしてもならない。この犯罪には12か月以上の禁固刑、もしくは$500(当時)の罰金が科せられた。
    学校 白人学校と黒人学校は厳密に分けられた。

    ミシシッピ州法
    平等扇動罪 パンフレット・出版・公共場での演説などで社会的平等・異人種間結婚を奨励すれば、6か月以下の懲役、もしくは$500以下の罰金。

    50
    エメット・ルイス・ティル (Emmett Louis “Bobo” Till 1941年7月25日– 1955年8月28日)は、白人女性に口笛を吹いたことで殺されたアフリカ系アメリカ人の少年。愛称ボボ。
    14歳の時、イリノイ州シカゴの実家からミシシッピ州デルタ地区の親類を尋ねていた折、食品雑貨店店主、ロイ・ブライアントの妻キャロライン・ブライアント(21才)に口笛を吹いたと、ロイと兄弟J. W. ミランから因縁をつけられた。
    二人は、後日ティルの大叔父の家からティルを無理やり連れ出し、納屋に連れ込んでリンチを加え、目玉を一個えぐりだした。
    その後銃で頭を打ち抜き、有刺鉄線で70ポンド (32 kg)の回転式綿搾り機を首に縛りつけて重りにし、死体をタラハシー川に捨てた。
    ティルの死体は3日後に川から発見され、引き上げられた。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB


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    51
    ロドニー・キング事件、およびその裁判

    1991年3月3日、黒人男性ロドニー・キングがレイクビューテラス付近でスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。
    その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出して、装備のトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。
    たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像が全米で報道され黒人たちの怒りを膨らませた。

    この事件でビデオに映り身元が分かる白人警官3人(ステーシー・クーン巡査部長、ローレンス・パウエル巡査、ティモシー・ウィンド巡査)とヒスパニック系警官1人(セオドア・ブリセーノ巡査)の計4人が起訴された。
    裁判の結果、警官達の“キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった”との主張が全面的に認められ(実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、
    医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年経過した92年4月29日に陪審員は無罪評決を下した。
    これについては、白人住民の多かったシミ・バレーで法廷が開かれ、陪審員に黒人は含まれていなかった事も原因の一つであるといわれる。

    52
    ラターシャ・ハーリンズ射殺事件

    ロドニー・キング事件のわずか13日後となる1991年3月16日、持参したバックパックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていた[1]黒人少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズを、
    韓国系アメリカ人の女性店主、斗順子(トウ・スンジャ、Soon Ja Du、当時49歳)が射殺したのである。
    事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられた。店主は少女に椅子を投げつけた。
    その後、件のオレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して、韓国人店主は背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜いた。
    Duは逮捕され、事件の判決は同年11月15日に出された。
    陪審員は16年の懲役を要求していたにもかかわらず、判決は5年間の保護観察処分、およびボランティア活動400時間、罰金500ドルという殺人罪としては異例に軽いものであった。
    この判決は黒人社会の怒りを再び煽ることとなり、無実の黒人少女を射○するというこの事件により、黒人社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。

    54
    アマドゥ・ディアロ(Amadou Diallo、1975年9月2日 - 1999年2月4日) は、ニューヨーク市に住んでいた23歳のギニア人の移民。
    1999年2月4日に、ニューヨーク市警察に勤める4人の白人警官から、合計で41発の銃弾を受けて射殺された。
    4人の警官は解雇され起訴されたが、その全員が裁判で無罪となった。
    ディアロは射撃時点で非武装であったにもかかわらず射殺されたため、この事件は多くの人々の興味を引いた。
    また、白人警官が黒人であるディアロを射殺したことから、黒人達からの強い反発を生んだ。
    その後、警察官の暴力問題、人種差別問題、射撃の伝染性など、多くの論争のきっかけとなった。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%AD


    55
    一族一族愚かな一族

    56
    黒人男性射殺事件で警官無罪、米ニューヨーク

    http://www.afpbb.com/articles/-/2383272?pid=2866814

    ニューヨーク(New York)クイーンズ(Queens)区で2006年に丸腰の黒人男性(当時23)が警察官に約50発の銃弾を受け殺害された事件で、ニューヨーク地裁は25日、警察官3人に無罪判決を下した。

    59

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    61
    イギリスにインターンシップに行った日本人

    リンク切れ



    68

    >>61

    HIKAKINやんけ

    62
    基地害

    63
    2012年
    黒人カップルに13人の警察が137発の銃弾を撃ち込んで射殺

    警察無罪

    抗議デモ発生

    デモ参加者71人逮捕


    http://www.cnn.co.jp/usa/35064977.html


    76
    なおイエローは黒人以下の模様

    79
    英和辞典より

    fair
    féɚ(米国英語), féə(英国英語)

    A
    1a公正な,公平な; 正当な

    B
    1a〈人が〉肌が白く金髪の; 〈肌が〉色白の; 〈髪が〉金髪の,ブロンドの
    《★【比較】 fair は肌が白く髪が金髪で目の青い; dark は肌が黒く髪も目も黒っぽい; cf. blond(e)》


    http://ejje.weblio.jp/content/fair


    80
    ここ最近の事件もあるのがやべーわ


    引用元:http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1540608188/